おくやみ
加藤周一さんが亡くなられた。
訃報がでてた頃は半分記憶をなくしながら酒を飲んでいた。翌日二日酔いのまま再読していた「序説」を読み終わり、そしてその翌日の友人からのメールではじめて知った。
心の底からお悔やみ申し上げます。
しかし、こうやって「20世紀」が終わっていくのだなと思うと同時に、ちゃんとけじめをつけれていない「20世紀」だけが残っていってる感じがすごく怖い。
加藤周一さんが亡くなられた。
訃報がでてた頃は半分記憶をなくしながら酒を飲んでいた。翌日二日酔いのまま再読していた「序説」を読み終わり、そしてその翌日の友人からのメールではじめて知った。
心の底からお悔やみ申し上げます。
しかし、こうやって「20世紀」が終わっていくのだなと思うと同時に、ちゃんとけじめをつけれていない「20世紀」だけが残っていってる感じがすごく怖い。
過去2回のエントリを読み返してみると、すげー当たり前のことを当たり前に書いてる。
でも、もう一度問い返してみよう。ほんとに当たり前か?
あ、ほっときっ放しになってるHPですが、今年1年分の仕事(全部じゃないけど)を一気に撮影して、近日中にリニューアルします。
同じ時間、同じ場所にいても、人によってその見え方は違う。
当たり前だけれども、意外とそれは大きい。
それを知っているか、知らないかの違いは意外と大きい。
エントリのタイトルは書いている内容と定義が違っているかもしれないが、
なんにせよ言葉を獲得しておけということか。
なんだか感じたりしてるんだけど、フォーマットってことだ。
フォーマットはもちろん大切なんだ。だけど、それをきちんと設定した後にそれをどうやって崩していくのかってことがスゴく大事なんだ。ってことを、なんだかスゴく意識できたこの数ヶ月。
これはなかなか言葉で表現しきれないんだけれども。分かる人には分かってもらえると思う。
だから逆にどうやってフォーマットを設定するのかっていうのが大切にもなってくるんだと思う。
フォーマットを設定しつつ、どうそれが壊れていくのか。どこまで保てるのかを観察できるのか。とか。
それをどこまで面白いと思える自分がいるのかとか。どう組み合わせられるのかとか。どこまでをフォーマットとして許容できるのかとか。
セグメントするってことと、フォーマットにするってことと。
なんかそういうことか、と。やっと思えた今日この頃。
ちょっと関わってる仕事でやらなきゃいけなくて、やってみたら結構おもしろかったので、自分でもやってみた。
実はなんでわざわざ本っていう形態をwebでやろうとしてるのか疑問があったりしたんだけど、あっちゃこっちゃにいっちゃってるメディアにある程度分かりやすい形態を乗っけると、それを提示された人はいろんな展開を自然と考えだすんだってことがよ〜っく分かった。
頭のいい人と仕事するといろんなものを目の前で見せてってくれるのでおもしろい。
年末からここ半年くらいの間に結構な方々があちらへいってしまわれました。
アイク・ターナー、オスカー・ピーターソン、ボ・ディドリー。
R.I.P.
スーザン・ソンタグ「写真論」読了。
写真の話をしながらアメリカ文化論であり、これが書かれた時点での芸術史再構築の試みでもあるというような本だ。写真に興味のない人は読まなくていいし、写真に関わりのある人は読まなくてはならない。か〜も 知れないが、アメリカ文化とかいうヤツはどうしようもなく我々の生活に入り込んでいるのだから、まぁ読んでおけ。というような感じか。
んで、ちょっと考えた。いま芸術とかアートとかいうとそのほとんどがインスタレーションだったりする。要するに絵画ではないとうことなんだけれども、それってどうしてだろうか?
そしてその傾向は印象派以後、絵画が抽象に向かって、ダダやシュールレアリスムを経過してからなのには理由があるんだろうか? そしてソンタグが論じたように写真というメディアが人の物事に対する認識の仕方に変化を加えたのだとすれば、それはどう影響しているのだろうか?
ぶっちゃけ近代〜現代美術史となると分からないしお手上げだ。だが、どうしてかは考えたい。
まずそもそも、絵は平面だ。で、その平面をどんなカタチ──正方形か横長か縦長か、横長ならその比率はどのくらい──かを決めるのはその絵を描く画家の任意による。で、その任意はどこからくるのかといえば、それは画家の空間認識の仕方におそらくかかってくるだろう。と、絵を理解するためにはその描かれたものを理解する前に画家の空間の見え方、物の見方を理解しないと、ただ面白いとかつまらないとかにしかならない。もしくは好きとか嫌いとか。
だから様式や伝統みたいなものが必要になっていたのではないだろうか。様式を理解していれば画家の空間認識の仕方を理解する必要はないし、画家も自分の空間認識の仕方だけによらずに絵が描ける。
しかし、あるときからその様式を全部取っ払ってしまった。それ自体は逆に絵の可能性を広げもしただろうが、絵を見て理解をするには何が描かれているかを見る前に、しなくてはならないことが出来てしまった。
どんな物の見方をする人間がそれを描いたかを理解(理解するところまでいかなくても想像はする必要があるだろう)しなくてはいけないという。
そしてこの「画家の空間認識の仕方」にもう一つ要素が加わわって、より複雑になってしまった。それが写真だ。印象派の一番最初の展覧会は写真のギャラリーだったことは偶然ではない。彼らはかなり積極的に自分達の絵に写真を利用し、実際に写真に撮ったものを元に絵を描いてもいた。
ここで一つ問題がある。いろんなカメラを使ったことがある人ならお分かりかと思うが、カメラにはレンズというものがついていて、そのレンズには広角から望遠まで様々な画角がある。
一般的に標準レンズといわれるものは35mmカメラだと50mmという画角を持つが、これは人間の見た目より実は広い。人間の見た目に一番近いのが中望遠といわれるもので35mmだと70〜80mmくらいか。ブローニーだと120mmくらい。おそらくそのせいだと思われるが人間を撮るときに使われるポートレート用のレンズはこの画角のものだ。
つまり、人の目からすると標準から広角までのレンズで撮られた写真の空間は歪んでいるし、望遠レンズのようにクローズアップして見てはいない。
人それぞれ、おそらく微妙に空間認識の仕方は違うだろう。
それゆえ絵を理解しようとする際には画家の見方を想像する必要がある所に、今度はレンズを通して見た空間が加わった。
それは何も写真に撮ったものを元に絵を描いている場合に限らないだろう。ソンタグの写真論が根拠として採用されるのならば、写真の登場以後人は写真的に現実を見るようになっているのだから。
これでは絵を見るための手続きが煩雑すぎる。
では、インスタレーションはどうだろう。
インスタレーションは基本的に「ある空間」に置かれる。当たり前だがその空間は作家の空間認識の仕方にはよらない。おのおのそれぞれが普段の生活でしているのと同様にインスタレーションが置かれている空間を理解すればそれでいい。そして、あとはインスタレーションそのものを見ればいい。
ここには大きな違いがある。絵とインスタレーション。どうだろうか?
なぁ〜んてなことを考えついたら、荒川修作が自分的には少し解りやすくなった気がする。
たぶん、人それぞれの空間認識の仕方によらずに空間そのものを操作しようとしているのだな。
ってことはきっと、オノ・ヨーコは人それぞれの空間認識の仕方にゆだねるのだな。
どうだろうか?
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